「路地まちアートランブル2025」
- RIKA TAKAHASHI
 - 4 日前
 - 読了時間: 9分
 
S邸で公開中の髙橋理加のインスタレーション「Family History ~死者からの眼差し」
の会場であるS邸を管理されている、足利市通三丁目の和泉屋酒店の七代目店主泉莊一郎さんに、作品に使用させていただいた古い写真(和泉さんのお父様が所有していた)についてやご家族について語っていただいた
インタビュー全文です。
直接作品に影響を与えたわけではありませんが、制作に際し様々なことを考える材料になりました。
*録音の書き起こしを全文掲載いたします。
*話し言葉や方言はそのままに文字にしています。
*細字の部分は筆者の補足説明や解説です。
『和泉屋さんの歴史について』
初代の方は新潟。柏崎からこっちへ来て、それでお酒を作って販売したみたいですね。で、 三代目の方が東京に売りに行って、和泉屋をぐっと伸ばしてくれたって。足利では大した売り上ではないでしょ。それでも何軒か造り酒屋がありましたね。今は一軒もないですけど。造り酒屋は文化だからね。
三代目の大日さんのおみくじのお話?最初の年に大吉が出て。じゃあ、今年は行こうって、(東京に)行ってみようってんで。そしたら(足利のお酒が)売れたって。で、その話を聞いた他の酒屋さんも「ああ、東京に持ってくと売れるんだ」っていう噂になった。それで、次の年ね。(大日さんのおみくじで)凶が出たんで行かなかった。ところがよその造り酒屋さん。埼玉県だとか千葉県だとから、みんなわって東京に持って行ったからダブっちゃって。で、うちは行かないで、よかったって言って。で、お礼に(大日様に)絵馬を寄付したって。
*通3丁目の和泉屋さんの店内には、その絵馬の写真が飾られている。
僕が和泉屋の七代目。 初代は江戸時代、三代目は明治時代です。五代目代目はね女性が継いで。婿さんとって。
裏通りは斎藤家、お袋が斎藤家の人なんですよ。うん、S邸が斎藤さん。はいそれで(母が)和泉屋に来て、その後結局斉藤さんは誰もいなくなっちゃった。それなんで、僕達兄弟 3人で、あそこ管理している。松浦さんから線路道まで。全部そっくり(斎藤家が)持っているんで。
『戦争と家族の話』
戦争っていくつの頃だったか?僕は戦後生まれ。昭和20年の11月生まれ。終戦後ですから。父は75歳まで生きていました。ここの足利のあたりの戦前戦中ってどんな感じだったか?あ、それは聞いてないですね。それは(父は)戦争前から東京に見習いに行ってて、三河屋さんっていう東京の酒屋へね。で、そこから赤紙が来て戦争にいったんです。戦争が終わって、帰ってきて。だから、おじいちゃんが言うには、戦争の始まる前、戦争中もお酒は作ってたって言った。土地が結構あったんで、そこで採れたお米で作ってたって言ってましたね。だけど、作っても作ってもダメだから。うん、もう最終的には作んないで、何もしなかったって、そのお米があったんで、なんとか、食べられた言ってましたね。昔は自前の田んぼで、酒用のお米作って。それも作ってもらってたんかな。昔は子作人がいて、その人たちが作って、それを今年はこれだけ取れましたって持ってくる。そんな話してましたね。農地解放でみんななくなっちゃった。だから、親父が言うには、それが残っていれば、毎月毎月新車買ってやれたのにねって言ってましたね。(笑)
『斎藤家(S邸)の叔父さんの話』
S邸の写真?あれはおばさん。おばさんだからお袋の一番下の妹。三人姉妹で結婚したのはお袋だけですから。おばさんが 二人で、おじさんが 一人ずっと住んでて。おじさんは東京で学校の先生をしてて。向こうで亡くなっちゃった。そのおじさんが器用だったんですよね。昔は木で色んなもの作ったでしょ、子供の時に。で、僕はそのおじさんから、飛行機だとか、いろんなものの作り方を教わったわけ。そのおじさんが飛行機を作るのが上手だったんですよね。で、僕がいくらやっても上手くいかないですよ。なので自分は戦車を作ろうと思った。一つ戦車を作ってみてから写真を持って行って「おじさん、これと同じようなの作れる?」つって渡した。その後、おじさんが「できたぞー!」って言うから見たら、私の方のが上手くできてる。じゃあ俺はこれから戦車を作るぞ、と。そう思って戦車ばっか作った。
*七代目が子供の頃から作りためた箱いっぱいの木造戦車。細部まで驚くほど繊細に作られている。
これ全部写真とか調べて作って。 87分の 1くらいでね。今どきのねプラモデルじゃないです。木です。全部木ですからね。これは中学生の時に作ったやつ。これはおじさんとの共作。知り合いの自衛隊員が「俺これ乗った!」って言ってた。(それほど精巧に作られていた。)
この戦車を作ろうと思ったのは、やっぱりおじさんの影響で。結局、それまでは、同じもの作っても、おじさんに絶対にかなわなかった。そのおじさんが、斎藤家の母の弟です。僕が子供の時にはずっと近くに住んでたってこと。その後学校の先生になって、東京へ行っちゃったから、そのあとは教わってないですね。その方はこっちに戻ってないです。東京で亡くなっちゃった。東京でもいっぱい作ってたんかね。飛行機の部品がいっぱい残ってて、それで、僕の弟、真ん中の弟が、おじさんの影響で飛行機を作ってて。弟が、「それみんな部品もらっていいか」って聞くので、「ああ持ってってくれよ。俺は戦車だ」って。
この木は全部木版画用の木です。版画用の木っていうのは、枯らさなくちゃできないんですよね。狂いが出ちゃいますからね。乾いてないとね。たまたま東京の洋書店に行った時、戦車の写真集で、図面が書いてあるのがあったんですよ。その図面が欲しくて、高いのに買ってきて。全然読めないけど形だけは分かるでしょ。それをコピーして、一生懸命作った。もし中学生だとかが作りたいっていう子がいれば教えますよ。
『父母の語った戦争』
戦前の足利の様子?僕は終戦後生まれなので、全然そういうことは知らないですね。昭和20年の11月生まれですから。お袋が大変だったでしょうね。本当にね。ここはね、やけ焼け残ったっていうか、太田じゃ大変でしたよね。ここは、たまたま太田に爆弾を落として残っちゃった爆弾を落っことすぐらいだったでしょ。父が前亡くなる前には、なかなかそんな事を聞けないです。法玄寺のお尚さんが父と同級生なんですって。和尚さんは中尉さんで戦争じゃ違う方面に行ったけど、うちの親父は海軍に行って。で、「戦争でこういうことがあったんだよ。」て、和尚さんにそういう話をして、それを聞き取って、和尚さんが本にしたらしいですよ。足利市の法玄寺。そこに父と車で行ったら、向こうから和尚さんが来たんですよ。そしたらピシッと親父がこうやってね。(敬礼のポーズ)和尚さんもピシッと2人でピッてこれやって、和尚さんが下ろすまでは親父も下さなかった。それを親父に聞いたら、向こうが位が上だと。親父が亡くなった時にね。和尚さんとたまたまそんな話しをして。海軍はこれなんですって、ぶつかんないように、(海軍式敬礼)陸軍はこうなるんですって。(陸軍式敬礼)
親父のすぐ下の弟が特攻するところだったって。モーターボートに爆弾をつけて、それで敵に突っ込むんですって。それで敵にぶつかって爆発するんだけど。行く寸前になっても、エンジンが来なかった。それですぐ終戦になっちゃったんで、助かったって言ってましたね。泉家は 3人戦争に行ってるけど、誰も死ななかった。だから「おたくはいいよね」って、周りに言われたって、おばあちゃんが言ってましたね。それは運もありますよ、1歩間違えば、ですもんね。だってね、戦争で打たれてもしまいでしょう。あと、船だってね、向こうの戦艦に打たれりゃアウトですからね。で、親父は武蔵に乗ってたんだけど、結婚して下艦したんですって。で、武蔵は、そのまんま行って、沈んじゃったんですね。乗ってたら死んでました。親父の上官が、「新婚さんを連れてくわけにはいかねえんだから、降りろ!」と。それで、河和航空隊(海軍の教育機関の一つ。整備要員の大量養成を図るために設置した。)っていうとこへ降りたんですね。その後武蔵が出動して、それで沈んじゃって、自分がいたとこが、一番初めに爆弾落ちたとこって。だから、「俺がもし乗ってたら死んでたよ」って。だから、その上官なんかがいたのも一番先に爆弾落ちてたとこ。後部指揮所。
親父は一番初め長門だったでしょう。戦争が始まる前から、戦艦長門へ乗ってた。で長門に行った時に司令官、山本五十六だとか、ああいう人たちが、長門に乗っていて、それで音楽演奏聴いてワインを飲んだりしてたって。日本は普通焼酎か日本酒でしょう。ところが長門はワインが置いてあるんです。それで外国の音楽を演奏して、山本五十六なんかが、こう飲みながら聴いてるんです。海軍は年中海外を回ってるから、そういうのは当たり前だったんですね。というふうに言ってましたね。海軍と陸軍は違うんだよってねえ。
今の若い子は多分戦争の話を聞く機会が全然ないと思うんですよね。全くね。だから、僕なんかの年代位までですよね。親父がたまたま話をしてくれた事だけだけど。あとは戦艦長門は大砲が 8本付いてるんですよね。それで八門会っていう会があって、それが毎年毎年どっかで集まったって。親父が武蔵会に行った時に、自衛隊の海軍の幹部の偉い人が、いたんですって。その人がニュージャージーっていう、アメリカの戦艦が日本に入ってくるんで、それを見に行かないかって、誘われて何人かと行ったんですね。そしたら。銃を持ってるアメリカ兵がピタってこうやって(敬礼のポーズ)「気持ちよかったよ」って。で、みんなで見て、「あ、武蔵よりもちいさえな」って。親父が言ってましたね。だから武蔵はよっぽどいい船だったんだよね。親父は長門に乗っていて、長門から何名、陸奥から何名って、全部専門家が集められて、艤装官(船体が完成した後に各種装備を取り付ける工兵。)付けで行ったから武蔵のことはよく知ってるんだよ。って言ってました。親父は武蔵だとか、長門にいた話なんかは、たまたま法玄寺の和尚さんに話をしてね、その和尚さんが、僕に色々話してくれたんですね。
お袋とのことでこの武蔵でから降りる経緯も、和尚さんから聞いたんです。「そういう話をしてたよ」って。僕は昭和20年生まれなので、お袋は本当に苦労したと思いますよ。
(父が)河和航空隊ってとこにいた頃。そん時には、まだ僕はお腹にはいなかったですけどね。艦載機で銃撃されたりなんかしたって(母が)言ってましたね。で機銃撃ってアメリカ兵が飛行機でこう来た時に、笑ってるんですって。バーって撃つ時に。顔が見えるんです。パッて見ると、こう笑いながら撃ってるって、子供なんかがいるとしても。「だからね、もう嫌だった。」ってお袋は言ってましたね。低空で飛んできてそれで打つわけでしょ。だけど、地上から撃っても弾が届かない。もう全然ゆうゆうと飛んでいる。ただの的になっちゃいますね。
だから、今イスラエルとアラブが戦争やってるでしょ。何かね。悲惨ですよね。悲惨ですよ。本当にね。だからね本当に戦争ってのは、やっちゃダメですよ。ダメです。日本だって、いつどうなるかわかんないような状態に来ちゃうでしょう。最終的には、何にもできない状態で戦争になっちゃうんでしょうからね。


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